学校が好きじゃなく通っていない人、最近多いですね。
そしてそれは、学校に「行けない」「落ちこぼれ」とかではなく、ただ、「合わないだけ」だと思うんですよ。
そして、その「学校に行きたくない」という気持ちは、大切にしてほしいと僕は思います。この記事のタイトルにもある通り、僕からすれば「学校は行きたくないと思うほうが普通」です。そういう人が増えれば必ず社会は変わっていきます。
※この記事でいう「学校」とは、一般的な日本の公立の小学校、中学校、高校のことを意味します。学校によって細かい部分はもちろん違うと思います。この記事では最悪のケースを想定しています。
Contents
学校は人権無視の強制収容施設だ
学校が学生に対してやっていることを箇条書きしました。
- 強制的に全員に同じことをやらせる
- 強制的に時間を拘束する
- 個人の価値観を否定する
- 個人の才能を否定する
- 個性と創造性を破壊する
- 学生の心を傷づける
- 上から目線で学生の価値判断をする
- 学生の意見を聞かない取り入れない
- 全員同じ人間にしようとする
- 服を選択する自由を与えない
- 一方的に価値観を押し付け刷り込もうとする
- 理不尽で非合理的な校則やルールを強制する
- 人格に問題のある大人の下で1日の大半を過ごすことを強制する
これを「強制収容施設」と呼ばずして、他にどんな言葉があるでしょうか。
「学業成績」「ルールを律儀に守る」ということを規範として一方的に制定し、それに従わない学生は叩いて強制的に型にはめる。
学生の意見も何も聞かずに、教員たちの都合の良いように学生を縛り命令する。
髪を染めてはいけない、アクセサリーをつけてはいけない、と意味不明な規則を一方的に押し付ける。
制服で学生を一方的に縛る。これに関してさらに言うと、男子はパンツのみで女子はスカートのみ、というのもおかしなことだと思います。

多様性や違いがあってこその社会ですし、それを大人たちが潰すというのは、完全におかしな話ですよね。
そもそも、教職者たちはそういう不合理極まりないルールを学生たちに押し付けている自分たちが恥ずかしくないのでしょうか。
学校がやっていることは人権無視だと僕は思っています。実際とある調査によると、9割以上の高校に生徒の人権を侵害するような規則があったそうです。
「不良」という言葉があり、よく「あいつは不良だ」といったような使い方をしますが、僕からすれば「どっちが不良なんだよ」と。
「不良品は学校だろ」と思います。
学校のせいで、素晴らしい才能や個性をもった多くの人が犠牲になっていると思います。
教師の質と選抜方法に深刻な問題あり
教員は学生の気持ちに寄り添おうともせず、気に入らないことがあれば理不尽なものを押し付ける。そして親には媚びへつらう。
こんな人格的に問題のある人間が平気な顔して教師をしていて、それでもって学生は教員を選ぶことはできないということで、完全に意味がわかりません。
なぜ教員資格取得試験に厳しい倫理観テストや人格テストを設けないのかも意味が分かりません。
子どもにとって学校というのは大半の時間を過ごす場所であり、人格形成に大きな影響をもたらすのではないでしょうか。
学生、特に小学生などの時期に悪い教師に当たってしまうと、それは残酷な現実があります。
大多数の学生たちにとっては、学校が全てというか、学校が社会全体のようなところがあると思います。
そんな学校で、教師とはほぼ毎日顔を合わせます。
その人間が、怒鳴ったり高圧的な態度をとったり、乱暴な言葉を使ったりする人物だったらどうでしょうか。教育的に最悪なだけでなく、学生たちには重すぎるストレスがのしかかっていきます。
上記のような例だけでなく、「まだ教えてないからこの漢字は書くな」などどいう、悪質な行為をする教師もいます。
その結果、塞ぎ込んでしまったり、人間不信になったりする学生があらわれます。
普通に考えたら「おかしなことだ」と、わかるはずです。
以上のことに「それが当たり前」とか「我慢を覚えさせるため」といったわけのわからないことを言う人は、その人自身が我慢の生活を送ってきて、自由に生きている他者がうらやましくて嫉妬しているだけだと僕は思います。
学校のやっていることは独裁国と何ら変わらないでしょう。
いや、独裁国よりもひどいのではないでしょうか。
独裁国家は社会的に非難され、場合によっては制裁を食らいますが、日本の学校はというと、社会的に擁護している声が多数で、制裁も何もないからです。
僕はよく、「日本は開発途上国だ」と思うことがあります。ただGDPが高いからって、経済が発展しているからって一体何が先進国なのだろうか、と。
日本人の子どもの幸福度は、世界最低レベルらしいですね。

なぜ教育に「学校」という一つの制度しかないのか
僕は現状の学校制度に対してはかなり批判的ですが、勉強、教育は非常に大切だと思っています。
なぜなら、勉強をして知識をつけることで、自分の人生をより自分らしく豊かに切り開いていくことができると考えているからです。
(ちなみにここでの「勉強」とは、「学校の勉強(国語数学理科社会のようなもの)」だけでなく、読書や音楽、ゲーム、アート、映画など、様々なことに挑戦していく姿勢も指しています)
そして、「教育」「勉強」といったものが、学校を軸としていて、それ以外は「普通」ではない、という現状の社会の仕組みや認識がおかしなものだと思っています。
もちろん、現在はフリースクールや、僕と同様のことを感じている人が設立した機関などがどんどん増えてきているでしょう。
それらは喜ばしいことですが、それでもやはり圧倒的に不足していると思います。
これは問題ですが、それよりも深刻な問題があります。
それは、問題があるのは学校側なのに、あたかも学校に行かない学生側が問題であるかのような風潮をつくりだし、学生たちを精神的に追い込む人たちの存在です。
このような人たちがいまだに存在しているために、本来変革すべきものが、変わることができないままでいるのではないでしょうか。

学校はごくシンプルに「合う」「合わない」ただそれだけの話であると僕は思っていて。
人間はそれぞれが全く違うわけで、それを『学校』という一つの枠に当てはめるのは、あまりにも無理があるとは思いませんか。
思考停止している人たち
このおかしな学校教育に慣れてしまっている人たちに対しても、僕は疑問があります。
学校はおかしいと思っているのにそれに従い続けるのは、いわゆる「思考停止」というものではないでしょうか。(あるいは恐怖ですくんでいるのかもしれませんが)
「思考停止という病」という苫米地英人氏の本にも書いてありましたが、自分の頭で考えることをしない人があまりにも多いと思います。
今、理不尽な規則や悪質な教職者に人生を阻まれている学生の人は、ぜひ、勇気をもって声を上げ続けてみてはいかがでしょうか。
声を上げるのが難しいなら、自分が安心できるところをなんとしてでも探し出しましょう。
どんなに不満を持っていても、声を上げなかったら、行動しなかったら、現状は何一つとして変わりません。
勇気を出して行動したら、必ず、何かが変わります。
どんなに間違ってもやってはいけないのは、合わない環境に身を置き続け、自分を責めてしまうことです。
学校にもプラスの面はあるのかもしれないが
ここまでさんざん学校制度を否定してきましたが、プラスの面もあるのではないかと考えました。
たとえば、かけがえのない友達ができたり、新たなことを知るきっかけになったり。これらは素晴らしいことだと思います。
ですが、いくらプラスの面があったとしても、それを踏みにじるありあまるほどの欠点が学校にはあります。
そして上の項でも述べましたが、友達を得たり、新たなことを知ったりするためには別に学校である必要は全くないわけです。
なので、「学校はおかしい」というのが僕の結論です。
まとめ

各人が持っている特徴を一方的に価値判断して蔑ろにし、心に傷を負わせる。
しかるべき合理的な理由もなにもなく、ただ力によって理不尽に押さえつける。
もともと素晴らしい才能や個性を持っている子どもたちがいるのに、それをことごとく押し込める。
そうして子どもたちは自分を責め、自分を閉じ込めていく。
なぜこのようなものが、当たり前の顔をして世の中に存在しつづけているのでしょうか。
「みんな違ってみんないい」
金子みすゞがおよそ100年にこんなことを言っていました。
この記事が何かしらのきっかけになり、そして、行動しようと思っている方の勇気の手助けとなれば、幸いです。